昭和58年11月23日 月次祭
今こちらに出て来る途中で「奥山でひとりこめつく あのみずくるま だれをまつのかころころと」まぁこりゃ都々逸の文句ですよね。それを繰り返し頂くんです。ははぁこれを今日のお説教のしんにならなきゃならんのだなぁと。皆さんそれからどういうものをお感じになりますか。おくやまで ひとりこめつく このみずぐるま。水車の事ですね。誰を待つのかくるくると。絶えずくるくると回っておる。私しは信心には何時も、いわゆる瑞々しさ、したたる様なものがなからなければならないと。
今日は末永先生が、あちらへ帰るのがもう数日後に迫りましたので、何か末永先生との対談をお願いしますというて、今朝から先生方私の部屋に集まる様にして。2か月余りこちらに居らせて頂いておる間に、何か勉強が出来たか、これは頂いた帰らにゃならんと言った様な何かあったか、と先ず私しは質問いたしましたら、先生我申します事は。いよいよ海外布教は合楽理念に元ずく以外ない。この思いをいよいよ深く致しましたと言うのでございました。
今まで知らなかったとかじゃなくて、それこそ知る人もないしかも遠く離れた、外国の地で布教するというので、合楽の信心を本当にマスターして、いうなら実験実証を積み重ねておらなければとても出来る事ではない筈であります。合楽理念と言うものは、それは今度こちらに還らせて頂いて、いよいよその念を強うしたというのです。私は限りがない合楽の信心は限りがない。是も昨日の朝でしたでしょうか、2、3日前から大阪の泉尾教会で是非末永先生のお話を聞きたいと言うので。あちらへお話に参りました。
そりゃ大したごひれいのま教会でございますから。その御信心の内容もまたところが、どうしてもどこにあのごひれいの元があるのかわからん。私は何時もあちらから送って頂く御本を読んで貰っては、泉尾の三宅先生の御信心を頂こうと思うて、なかなか難しくて解らん今度あちらに出かけます時にも、泉尾先生の信心の、いうならどこにあのごひれいの元があるか、そこを見たり聞いたりして来てくれと言うて申しました事でございましたが。先生はもう81歳になられるそうででございます。
それでいて、先だってもアフリカの宗教なんかの集いに、日本から一人出向いていっとられます。それこそ世界を股にかけての人間救済のための、働きと言うか御用をなさっておられます。それに使わされる費用なんかっていうものは、それはお話を聞きますと莫大なものであります。私は話を聞きながら、ただおかげを頂かれる先生はここだなと思った事は、今も申します様に信心が瑞々しい、それこそ間断なしに人の助かることのためのご信心と言うものが出来て来ておられる。
そこには限りないお恵みの水は流れに流れ続けておる。車はひとりでに回っておる、ひとにはいうならいっつもなら白米ですかね、お米をつく作用とというか作業がなされておる。更に驚きました事は合楽から何時も送ります、おかげの泉、合楽便り、もう先生は何回も繰り返して読まれる。そしてそううと鉛筆で線を引いて、その合楽の信心をまぁその研究をなさる。そして尚また驚いたことは、合楽の末永がきたら今度これも、これも聞こうと言うので、合楽の信心のここはどう言う風に頂いておられるかと。
箇条書きずぅうと書いておれれる、それを質問されたと言う事をきいて。それを81のしかも大した受けれれた先生が、合楽に対するそういう思いで合楽理念の芯にま触れようとなさっておられると言う事を聞いて、成程信心といやぁもう70になり80になったら、まぁそれこそあるやらないやら分らん様な、漂々としたというか又は坦々としたというか、枯淡の味というものをでるものだと言う事ですけれども。信心においては枯淡の味というものはないと私は思うですね。
これは私自身それを思います。円熟して行くと言う事はあっても、枯れて行く様ないうならま、味わいと言うものではない。それはあの三代金光様のご一生を思うて見ればわかるです。いつもそれこそお身体をご不自由になっておられましたけれども、日に日にがされでございますとこう晩年の事葉です。日に日にが新らであるという所にです。いうならば瑞々しい、暖かいものを私共に与えてやまれなかったと思います。
今日栄四郎たち親子で、大阪の片江教会から来ておりますから、あちらの御大祭に参拝させて頂いております。帰りましてから一番に申します事は、合楽の信心がこうあらゆるところに浸透して言っていると言う事、いろんな集い色んな場合にそれを感じたと言う。お説教後の何とかと言う有名な先生我お説教なさいました中に。もう合楽理念を勉強してからでなからにゃ言えない、言うならその実証を御話しなさったと言う事です。全ての事、合楽で言われる御事柄とは仰らなかったけれども。
全ての事柄そのものが神様の御働きなのだ。これを合掌して受けて行くというお話をなさって、合楽理念をよそで効いて来た様な感じだったと言うてお話をしております。皆さんとても合楽で御話しを頂かれればいうなら御理念にもとづいてのお話しばっかり。いうならおんなじお話しばっかり。今日末永先生に、新たにどうこうと言う事はないけれども、結局あんたが今言う様に、いよいよ海外布教は合楽理念をもってす外はなしという。その思いがあんたが数年後又合楽に来た時に、おんなじ思いをする事であろう。
いうならばその思いが、知っておったはずの御理念がいよいよ実験実証によって。もっと深く広く解って行くのだ。だからもうこれ以外にはないよ。何か問題があったら問題はめあてにしちゃならん。もう自らをいうなら正していかなければならない。その事に質問先生がしました時に、鉛筆を削っているところを頂いた。折れておれば書けません。なら削らにゃいけません。削ったら必ず芯が出る。いうなら例えばそこに難儀な困ったと言った様な、そこに問題が外部から起って参りましても。
その外部のその問題を問題にせずに、自らを正していく、自らをいよいよ身を削り心を削りしていく事以外にはないばい。いよいよ御理念一筋にもっともっと深く広く、分らして頂く事いがいないなと申しましたが。合楽でけいこなさっておられる皆さんがどう言う様なふうに、合楽理念が血になり肉になり、生活のそれぞれの現場において現されておるかと言う事を思うて頂きたい。昨日は病院行きでしたが、帰りの車の中で、古川先生が何時も送り迎えしてくれます。
先日今度の12月ですか、合楽祭りの出し物に丸少が親先生の半世紀をドラマ化していまシナリオをかいております。若い先生我他ばかりで集まって、中には千恵子先生の一人息子であります、良太郎君のそのシナリオを見てから感心しましたと言う話を車の中でするんです。本当に悪そう坊主で、何か分っていっとる筈ないと思うておったけれども。その台本の中で、親先生のご修行中の事をかいちゃる。
水ずくし魚ずくしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃと神様にお知れせを頂かれた、その時の事がどうと書いちゃると話しておる。私は後ろでもう胸が一杯になった、解るやら解りょうらんやら、まあごろごろしとる様に思うんですけれども。合楽でこうまみれておると言う事。合楽の信心者の中に揉まれておると言う事で、いつの間にか合楽の信心を、いわゆる頭では体得しとる、これも先だって若い先生方が、合楽の信心というレポートを読ましてもらった。欣也先生、恵介先生、泰男先生。
合楽では一番若い先生方ばっかり、丸少出の先生方ばっかり。それを見て私しは本当に驚きました。それぞれの角度からそれぞれに合楽の信心を見事に文章にしておるのです。皆さんとてももし合楽の信心をレポートされたら、それこそ私しがびっくりする様な所を、ちゃんと捉えておられるに違いはないのです。けれどもそうして知っておった覚えておったというだけでは、大したことないです。
いよいよこれこれは合楽理念を持ってする外なしという体験を積み上げて生活の全ての上に、御理念による生き方を進めさしてもらい、真の信心の言うならば。ここが決め手だ、ここから私共の本当の生き方、言うなら天地の実働を把握しながら、日常生活を進めて行こう。今日夕方椛目の愛子達夫婦がお礼に出て参りました。おかげを頂いて今日で結婚10年目を迎えさせて頂いたと言うお礼のお届けに出て参っております。
もう丁度夕食前でしたから、何もないけれど一緒にここで兄弟そろうて、まぁ頂こうかというて夕食を一緒にさして頂いて、何時もの事ながら本当に折り難いなぁと思う事は、咄嗟の事でしたから、本当に何もないだろうと思うとったら、はぁいろいろと御馳走があって、こっちから集まっておった。それに御赤飯までお供え頂いておったのに、まぁ何時もの事ながら有り難いとこう思います。
それこそ、何時でも山奥でひとり米をついておる、水車が回っておって、何時でも米をついておると言う働きがそういう時に現れて来るのです。天地との交流はずぅと絶えずそれを受け止めておるのです。この水は枯れると言う事がない、だからそこに生き生きとした働きもそこに生まれて来るのです。私は食事の前にひと言申しました事でしたけれども。もう本当に結婚10年間。2年か3年で分れると言う人があったり、なんかぶっそりがっさりがあってから出てきた。
そういう事の何にもない無しに10年間迎えれれたと言う事は、本当におかげだぞ。一般では時々は夫婦げんかもしなければ刺激がない、かえって雨降って地固まると言った様な事は普通にそうだと言うふうに皆んなが思いこんでおりますけれども。そんな事じゃないよ、私とお母さん結婚してから40数年になるが、一遍だってそう言う様な、なら家内に手を当てたこともなからなければ、なにかぶすがす言わにゃならん様な、気まずい思いをした事もない。
ただなら段々有難うなって行くばぁっかりぞと、子供達に話した事ですけれども、問題がないじゃないけれども、その問題を問題にせんで済む。これが私しは合楽理念の実験者の体験、またはそれをそう現して行く態度でなからなければならないというふう思います。これだけ覚えとるからそれが段々、生々しいものを欠いて言っておる様な事はないだろうか。合楽の信心をドライに受けての止めて居る様な事はないだろうか。それこそ日に日にが新らの頂き方、それが有り難いのであり楽しいのである。
先だってのお月次祭に申しましたように、良し悪しを神に任せる、その心こそがお道で言う和賀心だと、それだけじゃない和賀心の一面である。神様にお願いしてお任せしておる、心が安らいでおるはずです。心が安らいでいないならそりゃ本当に任せていないのです。そこでまたなら自分の信心を見直す。いうなら心配する心で信心せと仰るから、一段とそれこそ身を削り心を削らさせて頂くところ、生まれて来るのが安らぎである安心、平常心である。その平常心こそ和賀心である。
こういう大変な事をお任せ出来れる神様を頂いておると言う事は、何と喜ばしい事であろうか。その喜ばしいという心が賀の心である。和の心、賀の心である。どこによろこびこういう神様を頂いておれる。日々生き生きとして瑞々しい心で、神様を頂いて何時でもどこででも神様の働きがピシッとこう受とめれる。キャッチできる神様を頂いておると言う事が有り難い。これが賀の心。和賀心。
そういう限りない和賀心をいよいよ、広めて参ります。いよいよ深めて参ります。私はいわゆる合楽の御信心が思いもかけない所で、生き生きとした働きを残しておる事を。今日あっちこっちからのそういうニュースを聞いて思い。しかももう先生の様な体得を受けれれた方がと思うけれども。それこそすさまじい一級同心と言うものを、81歳の三宅先生が失っておられない。今度末永先生が来たら合楽の信心のここを訪ねてみよう。ここを合楽ではどう頂くかとそれを箇条書きにちゃっとこう、もう書いて質問をされた。
おかげの泉、合楽便りにはちゃっと鉛筆でそれに線を引きながら、まぁ繰り返しいうなら勉強なさっておられる。私は先生の御信心を今日末永先生から、昨日でした聞かせて頂いて私しもおかげを頂いた。というのは先生ああして世界中を飛び回られるから、どことはなしにキリスト教的な雰囲気を持っておられる。それでキリストの話がたまたま出たそうですけれども。
キリストで一番素晴らしいのは、キリストが十字架に掛けれれた時、神われを見捨てたもうかと、まぁいうならば神様に恨み言の様な事葉を残して亡くなられた言う事です。ただしキリストの信心の一番素晴らしいのはここだと。そこに復活があったんだと、永世行きどうしに生きられる元、土台がそこにあったんだと言う風に、お説きになったんだと言う事を聞いてから、真そうだなと、私しもそういう事は知っておったけれども、そんなに深いものであると言う事は知らなかった。
先生が日頃言われる、私しゃ亡くなる時にゃもうそれこそ苦しみに苦しみぬいて、私しゃ亡くなるんだと、私達の思いとは大分違うなぁといつも思っていましたけれども。それこそ有り難し、こころ安しという心を開いて亡くなられるのじゃないだろうか、と思いよったけれども。三宅先生の御信心をそこに解った様な気がしました。復活を願っておられるのです。私も最近その事を思います。
亡くなっていうなら肉体は滅びても、何時でも合楽の関係の皆さんが、親先生とこうおすがりして下さったら、そこにお取次ぎの働きが出来れるおかげを頂きたい。これ即ち私しの復活だと思います。もしそれが出来るとしたら。お互い信心の願いと言うものをいよいよ遠大のところへ。真のどんなに普通いうならば凄まじい行をして神様にお縋りしましても、その根本的なところが間違えられておったら。
その真の芯がなかったら、ならいくら身を削り心を削りしても芯は出ませんでしょう。芯がね。その芯は何処にあるかと言うと、これは絶対のもの間違いのないもの、合楽で進めておる御理念に元ずく生き方と言うものを、ここは御理念に元ずいたらどう受けて行くか。どう頂いていくかと言う事に芯があるならば。そして身を削り心を削りすると言う事を。心掛け念願しておるならば、必ず私しは字が書ける、おかげになる。
必ずいうならば天地の御恩恵をここに集めていわゆる、限りないお水を受けて山の水くるまがくるくると回っておるように。その恩恵によってここに、何時も一人で米をついておれれる働きが生まれて来ると思うのです。お互いの信心をその瑞々しさ、日に日に新らと言われるそこにつく信心を素直に、割り切ったドライな思い方を捨てて。もう純真にどういういうならば、おしいでもこれが本当だと言う事を聞き解らして頂いたら、それにさっと改めて行けれれる素直心と言うものを、いよいよ育てて。
しかも太く育てて、またお育てを頂いて自分の終生にも同じ喜び、同じ助かりに繋がっていけれる人達に、伝えて行けれる信心の迫力を身に着けて行きたい。口を開けば合楽の事、口を開けば神様の事と言われる位な、そういう信心を問題はあります。けれどもその問題を問題にせんで済む、問題の位の所までは合楽理念の行者を目指して、日々の信心生活に現して頂きたいと思います。
どうぞ。